この実家、僕が終(しま)いますね。

二人の障害者と介護福祉士の生活

弱い自分を受け入れること

今、ポジティブが流行ってます。

ポジティブツィートにいいね!とか。

続けてみようと思ったブログなので、正直に毎回書いています。

人間って、そんなにポジティブですか?

正直、私はそうは思えません、というかネガティブな日も当然あるよね。という話。

そんな時はツィートしない。ブログ書かない。

どうせ、他人が見ていい気はしないだろうしって。

そうなると、ポジティブな記事ばかり残って、ネガティブな気分の時にネットは開けなくなる。

ネットはポジティブにあふれている。

以下、ネット記事はポジティブばかりで検索。

「ポジティブを保つ方法」

「ネガティブな記事のほうが多い」

「ネットはネガティブの温床」 

こんな記事を発見しました。

toyokeizai.net

私自身も実はそんな病に侵されていました。

ありのままの自分で居ることを許さない社会。

演じることを強要される会社、家庭。

できる会社員の役、良いお父さんの役。

自分が自分で居る時間など、生まれて何日あるだろうか。

 

そろそろ、一度ネットを辞めてもいいかもしれない。

新聞というメディアがネットニュースに代わってしまった。

レンタルDVD屋さんもなくなってきて、オンラインの好きな番組や映画を名指しで選べるようになりました。

別に昔が良いというわけではないし、進歩していると思う。

でも、なくしたものも多いし、本当は無くてならなかったものまで、一旦終わったりしている。

新聞やレンタルDVD屋さんの点でいえば、興味のないと思っていた、または知らなかった記事や作品に触れることができる。

今は検索してそのワード付近の記事しか出てこない。

あとは「つながり」だろう。

SNSがコミュニケーションの手段になっていて、今はそれで盛り上がって金が動いたりもしている。

でも、これはただの一手段であって、震災時には地域のコミュニケーションが大事だと言い出す。

私は田舎に住んでいるが、独居老人が実に多い。

安否確認の手段として、新聞配達や、御用聞きの人が居たのに、今はもうそのサービスはない。

その代わり、安否確認のサービスなど訳のわからない業者も出てきている。

 

まあ、そんなことは置いておこう。

主題とずれてしまった。

 

弱い自分を受け入れることと書いたが、自己がきちんとできていて、ぶれないような強い人はこの際置いておこう。

私の場合は、SNSやネット記事のポジティブ記事を読むと、弱い私は自分が何でもできるような気になる。

そして行動的になるが、やはり、すそ野が無いので、失敗する。

私が行っているクラウドファンディングもそうだ。

失敗はするだろうが、これを使うにはコツがいるのだ。

勢いだけで突っ走って失敗した人を笑ってもらって構わないが、この「コツ」が見いだせない限り失敗は続くだろう。

料理を作ろうと言って、わざとまずい料理を作る人はいない。

何か行動するときも同じで、うまくいくと信じてやってみる。

結果的に失敗したとしたら、やっぱり落ち込む。

実力が無いとあきらめる。勉強不足だとあきらめる。

「それ」ができている人もいるのだから、自分もできるはず。

だけど、何かが足りないことを受け入れようとすると、初めに壁が訪れる。

「お前は弱い、小さい」ということ。

友達が何人SNS上で居ようと、どんなにたくさんの本を読んでも、足りないのだからそうだろう。

これは、他人から言われても気が付かない。

自分が社会で試してみたことが、社会で受け入れられなかった時、初めてわかる。

自分は一人であること。ただの知識のない勉強不足の人間であること。

この小さくて大きな壁を乗り越えるには、「努力」を「続ける」こと。

自分で階段を作って高い壁を乗り越えなければならない。

そこからの景色など考えてはならない。

単に今目の前の一段を上がって行くこと。

それしかない。

でも、ダメな自分を受け入れるのは非常に苦痛を伴う。

いわゆる自分で自分を手術するのだから。

心と体を縫い合わせる。

何日もかかるかもしれない。

何年もかかるかもしれない。

苦痛が嫌で逃げることもできる。

逃げたまま人生を終える人も多いから、別にそれが正しいとか間違っているのではない。

マナーの悪い年配者が多いのを見ると、逃げた人も居るのだからと目の当たりにする。

戦っても逃げてもいい。自分で決める。

だけど、人生は一回。そして、終わりまでの時間は確実に過ぎていく。

ただ、それだけの事。

私はまだ決めていない。

どっちがいいのか、まだわからないのだ。